お姫様、王様に会う

 

 青学に強力なルーキーが入学したという噂は氷帝学園にも流れてきた。
 全米ジュニアオープン最年少優勝。その他にもアメリカ中で行われているテニスのジュニア大会、一般大会での優勝、入賞。輝かしい経歴が榊から渡された資料に載っている。それらを移動する車内の中で跡部は眺める。これだけの人物が、日本の、それも自分がライバルと認める相手の学校へ転校してくるとなれば、跡部も警戒せざるを得ない。
(しかし女だ)
 越前リョーマ。男のような名前をしている彼女は女なのだ。性別が違う相手を、普通、跡部は敵として警戒しない。今回は特別な事情があり、彼女の経歴が考慮されて男子の大会に出場するという知らせが入ったのだ。資料にいくつか挟まれている写真の彼女は小柄で、長く艶やかな黒髪はポニーテールにまとめられている。どこからどう見ても女子である。一般的に可憐と称されるであろう容姿からは男子を打ち負かす姿など想像もできないが、よくよく見れば挑戦的な表情をしている。負けず嫌いなのだろうか。小学生までの年齢だと男女という性別の差はあまり問題にならない。むしろ女の方が成長期が早く訪れ、体格的には有利に働く部分もある。だが中学となるとそうはいかなくなる。高学年になるにつれ、男女の身体能力におけるポテンシャルは大きく差がつく。今は経歴と話題性で注目されているが、果たしてその実力はどのようなものだろうか。中学で男子と渡り合える力はあるのか。ダークホースの可能性を秘めているルーキーも気にはなるが、1番注意すべきは手塚国光だ。正直手塚さえおさえてしまえば他の選手は恐るるに足らない。手塚と相対するだろう跡部の調子、技術、実力は現時点で何ら問題ない。熾烈な試合にはなるだろうが、跡部に負ける気などない。手塚や青学のルーキーがどうであろうと氷帝の勝ちは揺らがないという自信が、跡部にはあった。
(結論は出たな)
 読み終えた資料をファイルにしまう。
 車の外は土砂降りだった。今日は休日で、部活もちょうどオフの日だった。知り合いの食事会に招かれた帰りに資料を読んでいた。これからのことを考えながらのため、結構な時間が経っていると思うが、雨のせいで道が渋滞しているらしく、車はなかなか先へと進まない。膠着した状態にため息をつくと、それを聞いた運転手の唐沢が苦笑いをこぼした。
「すみません、坊ちゃま。この土砂降りで渋滞しているようで…。遠回りですが、少し先の小道に入って渋滞を抜けます」
「ああ、そうしてくれ」
 読む資料も無くなったため、行きどころのなくなった目を窓の外へとやる。今朝のニュースで突然の雨があると予報していたためか、ほとんどの人が傘をさして歩いていた。その中で1人、傘もささず、かといって叩きつける雨の中を急ぐこともせず、悠々と歩いている小柄な人物がいた。その背にはテニスバッグがあり、余計に跡部の目をひいた。強い雨の中、顔がはっきりとは見えないが、跡部は何か既視感を感じた。短いけれど黒い髪、華奢な体躯、テニスバッグ……、共通点に気づいた跡部はすぐに次の行動を起こしていた。
「唐沢、ちょっと車を道の横に付けろ」
「はい」
 唐沢がハザードランプを点滅させて停止するのと同時に跡部は助手席にある傘を、身を乗り出して取り、車外へと出た。唐沢の戸惑いながら制止する声は、雨の音も手伝って跡部の耳には届かなかった。目標の人物とはそう離れていない。相手も急いだ足取りではないため、跡部が少し大股で歩けばすぐに追いついた。おい、と声をかけながら傘をさしてやると、その人物は落ちてこない雨と人の声に気づいたのか、上を向きながら跡部を振り返った。やはり、越前リョーマその人であった。ポニーテールからショートヘアへと変わってはいるものの、写真でみた通りの綺麗な黒髪だった。
「……ナニカ?」
「傘もささずにずぶ濡れで歩いてる女をほっとく趣味はないだけだ」
「はあ、アリガトウゴザイマス?」
「よくわかってねえのにお礼いってんじゃねえよ。とりあえずあっちに俺が乗っていた車を停めてある。乗れ、送ってやる」
「その傘を貸してくれるだけで十分なんだけど。連絡先とか教えてもらえれば返すし」
「塗れたままの状態で電車乗るつもりなのか。風邪引くぞ。いいから乗れ」
「知らない人の車にホイホイ乗っちゃうと思うの?」
 琥珀色の鋭い猫目で睨まれ、はたと気がつく。先ほどまで資料を見ていたせいか、何となく知り合いのような気持ちで声をかけてしまった。現実は跡部が一方的に越前を知っているにすぎない。越前が警戒することも当然だ。
「自己紹介が遅れたな。俺は跡部景吾氷帝学園3年テニス部部長だ。お前のことは青学に新しくきたルーキーとして一方的に顔を知っている」
氷帝学園
 警戒していた目がふるりと少し揺れる。手塚から名前でも聞いていたのだろうか。
「そっちの部長の手塚とも知り合いだ」
「わかった。じゃあ、お願いします」
 越前は頭を軽く下げて、傘をさす跡部の方に近づいてきた。生意気そうな顔ではあるが、礼儀はわきまえているらしい。お礼の言葉に跡部は、表情に出さず少し驚いた。こっちだ、と濡れないように越前の肩を抱き、車へ戻る。ドアを開けて、越前を先に入れながら運転席の方へ目を向けると唐沢が困ったような顔をしていた。頼む、と目で訴えると、唐沢はため息をつきながらもハンドルを握った。
「どっちの方向だ」
「青学の近くにある寺って言ったらわかる?」
「唐沢」
「かしこまりました」
 ゆっくりと動き出す。雨が叩きつけられる音とカーステレオから流れてくるクラシック音楽が車内を満たしていた。チラリ、と横目で少女を見ると彼女も跡部の方を見ており、パチリと目があった。よく観察しようと考えていたが、目が合ってしまってはそれもできない。
「いくら先輩の知り合いだって言われても、普通は警戒するもんじゃねえのか」
「声かけたアンタが言うの?面白いね」
「どこが面白いんだ、どこが。忠告してやってるんだよ。今回は俺だからいいが、悪い男も大人もたくさんいる」
「俺だって普通はついていかないよ。アンタ、悪い人そうじゃないし、氷帝学園に興味あったし」
「悪い人そうじゃないってなぜわかる?どうして氷帝学園に興味がある?手塚から聞いたのか?」
 思わず畳みかけるように質問を返すとウンザリしたような表情を返された。
「質問は1つずつにしてくれない。悪い人そうじゃないっていう根拠だけど、強いていうなら勘。俺、そういうの外さないから。次、氷帝学園に興味がある理由ね。手塚ぶちょーからは何も聞いてないよ。日本に来るってなった時、青学以外の選択肢が氷帝学園聖ルドルフだったから、そのテニス部に興味があっただけ。どんだけ強いのかな、って」
「ほう」
 越前が氷帝学園も視野に入れていたとは素直に驚きだった。もし、越前が氷帝学園に入っていたらどうだろうか、と考えてみる。越前が男子に混ざることを希望したならば、跡部や榊は許可しただろう。越前にはそれだけ実力がある。きっと、向日や日吉、宍戸あたりは反発するだろう。でもそれは初めだけで、その後は可愛がるだろう。1番厄介なのは忍足に違いない。奴は人当たりが良さそうに見えて、その実かなり臆病だ。容易には認めないだろう。だが、太いボーダーラインも最終的には消されてしまうだろう。臆病でもあるが、それと同じくらい面白いことも好きなやつだ。何かを切っ掛けに認めてしまうだろう。その切っ掛けは案外、ジローあたりが無理矢理作ってしまいそうな気もする。長太郎や樺地は言わずもがな、年下の後輩をそれはそれは可愛がるだろう。中々、良いチームになるかもしれない。
跡部サン?」
「悪い、少し考え事をしていた」
 急に黙った跡部に少し不思議そうにするが、さして興味は無いのかそのあとは何も聞いてこなかった。それから会話は続くことなく、詰まっていた渋滞も嘘のように車は進み、越前の自宅へと着いた。
「ここで。送ってくれてアリガトウゴザイマシタ」
 自分の体格とあまり変わらないテニスバッグを抱えて車から降りようとする越前を呼び止め、傘を差し出す。
「いや、もうすぐそこだし、既にびしょ濡れだからいいんだけど。返すのめんどくさいし」
「いいから持ってけ。別に返さなくていいし、他にも傘はある」
 跡部が絶対に引きそうにないことを感じ取ったのか、越前は不服そうな顔をしながらも傘を受け取り礼を述べた。生意気そうな口ぶりと外見に反して律儀だ。
「じゃ、またね」
 越前はまだ土砂降りの雨の中を軽やかに去っていった。跡部は後ろ姿が建物に入るまで見届けてから、帰るぞ、と唐沢に声をかけた。きっとまた、越前とは会うだろう。それはいつになるかわからないが。

 

 越前との再会は思ったよりも早かった。
 以前訪れたストリートテニスコートにレギュラー陣とふらりと立ち寄れば、青学の桃城がいた。他の氷帝レギュラーメンバーが桃城に絡んでいると、後から越前リョーマもやってきた。桃城に話しかける口ぶりからして、待ち合わせをしていた訳ではなさそうだった。
 特に割って入るような会話も用も無かったが、立ち去る理由もなかったので桃城と話している越前を眺めていた。その視線に気づいたのか、越前はこちらを振り返ってきょとんとした様子を見せた。
跡部サンじゃん。何でこんなとこにいんの」
「暇つぶしだ。お前は部活終わりか」
「そう。今日来なかった誰かさん、ここにいるかなと思って」
 桃城を見ながら越前が言った。なるほど、越前は一見クールそうに見えて案外情に厚い性格らしい。越前の人物評価を修正していると、2人の様子を見ていた忍足がこっそりと声をかけてきた。その声色には少し面白がっているような様子がある。
「あの子、前言うとった青学のルーキー?」
「そうだ」
「何で知り合いなん」
「ちょっとな。大したことじゃない」
 雨に濡れた越前を見て車に乗せて送った上に傘を貸した、なんてことを伝えたらめんどくさいことになりそうなのは明白だった。忍足と向日はニヤニヤしながら変な勘繰りをしてくるだろうし、滝は裏でレギュラーメンバーに話を広めるだろう。
「丁度いいじゃん。跡部サン、試合しよーよ」
 そんな跡部の気も知らず、越前は無邪気に誘ってくる。
「悪いがそんなに暇じゃないんでな。行くぞ、お前ら」
 すげなく断る跡部に唇をとがらせる越前。
 これ以上何か言われる前にさっさと立ち去ろうと他のメンバーに声をかけ、出口に向かって歩いて数歩。あ、と何かを思い出したような声を上げた越前が引き留めるように跡部の背中に声をかける。
「こないだ借りた傘、今持ってないんで今度の大会の時でいいっすよね」
 跡部の少し後ろで忍足や向日がにやにやと、滝も異様ににっこりしているのが伝わる。めんどくせえな、と内心呟きつつも越前に返事を返す。
「好きにしろ」
 返さなくていいと言おうかとも思ったが、それでは押し問答になりさらに面倒なことになりかねない。短く返してさっさと立ち去る。

「なかなか面白そうな子だね、彼女。跡部好きそう」

「レギュラージャージ着てたってことは試合出るんだろ?」

「誰が当たるか楽しみやなあ」

「ウス」

 可憐なルーキーに浮足立つ氷帝メンバー達。浮かれやがってと呆れる反面、跡部も彼女のプレー姿に興味は抱いている。だが、それを見るのはただの練習や遊びの場でなくて良い。

 来る関東大会。運が良ければそこで見ることができるだろう。そこで本気の越前を見る方が断然良い。

(失望させてくれるなよ、ルーキー)

 手塚以外にも1つ楽しみが出来た跡部の練習が厳しくなるのは予想できる。不敵に笑う跡部を見たレギュラーメンバー達は皆一様に震えを感じるのだった。それは武者震いなのか、厳しい練習への予感からくる恐れなのかは、その後のレギュラーメンバーのみぞ知る。